「国語は読書をすることで成績が上がる」、「算数は答えがひとつだけど、国語は答えがひとつとは限らないから教えようがない」という話を聞きますが、これらは誤解です。
たしかに、読書経験の有無は、国語に対する心理的なハードルの高低に関わりますし、国語の記述が模範解答と完全一致することはありません。
そもそも、算数だって「こうだからこうなる」という単純な二元論で片がつくほど貧弱な思想で出来上がっていませんし、小学生向けの問題なのだから単純化した答えが用意されていると考えることは早急にすぎるでしょう。
中学受験国語は、受験科目ですから、答えは一義的に決まりますし、出題者は定まった理屈を追いかけることを求めています。
もっとも、他の科目との大きな違いは、「問題文」があることであり、解釈にある程度幅のある文章を読むときに、何を伝えようとしている文章であるかを読み取ることができなければ、合格点を取ることはできません。
読解のテクニックそのものについては、他の記事をご参照いただくこととして、本記事については、私が中学受験国語を教える上で、何を重要視しているかについて書きたいと思います。
国語の学習の基本は漢字の学習にある
私が体験授業で真っ先に確認するのが、漢字の力がどの程度であるかです。
漢字の学力を見れば、80%くらい現状の能力を把握できます。
単に漢字を書けるかだけでなく、その言葉がどんな意味かを説明させ、また、ある語句を簡単に解説したときの反応を見ると、その時点の語彙力が分かります。
その後の授業で、どこから改善しようか、どのような指針で授業をしていくかを決めるのに、漢字の力をチェックします。
そんなことで分かるのかと、疑問に思われるかもしれません。
しかし、中学受験生の多くは、辞書を引く習慣をまだ身に着けていないので、「自分の辞書」から言葉を引っ張ってくる傾向にあります。
その子が自身の中に持っている辞書の精度を確認すると、考え方の傾向が掴みやすいのです。
例えば、「険悪」という言葉を書かせてみると、まずまず書ける子が多いですが、「険」は「けわしい、とげとげしい」という意味までは説明できる子でも、「悪」については困ってしまうでしょう。
そこで、「悪という字には、善の反対のよくないことの他にも、人やものごとをにくむという意味もあるんだよ。」と説明したときの反応を見ます。
その違いに価値を見出せなくて拒絶する子、分からないまま鵜呑みにしようとする子、新しいことを知って目を輝かせる子と、反応は十人十色です。
そのときの目の表情を拾って、その子に届きやすい表現を探ります。
言葉が好きな人と同じ行動を取る
国語で伸び悩んでいる小学生は、言葉の定義付けに苦手意識を持っていることがあります。
私が国語を改善するために必要な一番の要素として挙げるのが、「言葉に興味を持ちましょう」ということです。
これは難しい注文です。
例えば、ピーマンが嫌いな子に、「ピーマンを好きになりましょう」と言っているようなものですから、興味を持てと言った次の瞬間に興味が沸く方がかえっておかしな話です。
では、そんな無理難題をどう乗り切ればよいのでしょうか。
まずは、言葉が好きな人と同じ行動を取るようにするよう求めます。
言葉に興味があるというのは、知らない言葉に対して興味関心が深いことを指します。
ですから、テストで解いた漢字・語句の問題の正誤が気になるため、解答が手に入ったらすぐに、答えを見て確認します。
この行動をまねるように求めます。
ピーマンは好きでなくても、物理的に口に放り込んで、もぐもぐごっくんとすることはまねできます。
最初は苦みが辛いですが、良薬は口に苦しだと思ってがんばってごらんと促します。
知らないということを楽しいと思えるようにする
ここまで、漢字と語句を身に着けることの重要性について触れましたが、生徒によってはあまりに基礎的なことの話に、つまらなそうな顔をすることがあります。
そういった子は、解説の途中で、「それは知っている」、「それは分かっている」という言葉を使うということが見られます。
基本的なことを話されているのは、自分の能力を過小評価されているとムキになってしまうのでしょう。
先にも述べたとおり、世の中の現象は「こうだからこうなる」と単純化できるものは多くありません。
「こうだからこうなる」という二元論的思考は、点数の高低に一喜一憂する習慣につながり、たまたま記号が正解したことに満足して、その場しのぎの取り組みになっている傾向にあります。
その場合は、いったんはその子の思考習慣に合わせて、話を単純化します。
対話のリズムがついた段階で、少しずつものの見方を変え、未知の価値観に手を伸ばすことも楽しいのだということを伝えるようにしています。
説明的文章は、現代思想の基礎を知る
次に、読解問題への向き合い方について、説明的文章と、物語的文章に分けて述べたいと思います。
説明的文章を書いているのは、多かれ少なかれ、現代思想の先端を行く人です。
時代、場所が変われば考え方が変わるということ、人の考え方はそれぞれであることを、大人は経験的に身に着けていますが、経験が未熟な小学生は、たとえ聡明な子であっても、自身の考え方の枠に縛られがちです。
よく、子供は自由で柔軟な考え方ができるというようなことを耳にすることがありますが、私の認識は逆です。
小学生は偏見の塊で、自らの考えに捉われ、そこに縛り付けられていると考えています。
封建時代の庶民が、自分を縛り付けている古い慣習を、盲目的に信じているのに近いと思います。
今の世の中の考え方が絶対的なものではないことを大人が知っているのは、それは自分の子供時代と今とで、考え方の枠組みが変わったことを体感的に知っているからであり、物心ついてから10年足らずの小学生は、その実感がありません。
その固定概念を破ることが、説明的文章を読む上で必須であり、それを対話によって導くのが国語講師の役割だと考えています。
現代思想は、構造主義の延長(ポスト構造主義)にあると捉えるのが、中学受験上有効だと考えています。
構造主義は、ソシュール、レヴィ・ストロースなどの思想家が大きな役割を果たしましたが、小学生にそこまで難しい用語を理解させようとするのは酷だという意見も耳にします。
たしかに、構造主義という言葉や、思想家の名前を知らなくても、問題を正解することは可能なので、その意見も理解できます。
しかし、上位校の問題文には、構造主義を前提とした問題はかなり出題されていますし、サピックスの教材には、レヴィ・ストロースの名前は出ていなくとも、その思想そのものを1回分のテキスト丸々使って説明しているものもあります。
構造主義を知ると、論説文で「相手のことを思いやらないとダメ」ということだったり、「人と人との間に優劣はない」ということだったりを説明する文章が、すんなりと頭に入るようになります。
だったら、目指す学校群によっては、小学生レベルにかみ砕いた上で、ソシュールやレヴィ・ストロースの構造主義、また、フーコーなどのポスト構造主義の思想家がどんな人なのか覚えてもらった方が、整理しやすいと考えます。
そして、「ほら、これってソシュールみたいな話でしょ。」と伝えた方が、簡潔な説明につなげられます。
根本的に理解していなくとも、著名な思想家の説に基づいて説明しようとする著者はたくさんいるので、抽象的な話であっても、「聞いたことのある話だな」と感じることができたらしめたものです。
物語的文章は、感情の相場を知る
「うちの子は幼いから、特に恋愛の話の心情が理解できない」というご相談を伺うことは、よくあります。
たしかに、初恋未満の小学生男子が、女子の気を引こうとして女の子にちょっかいを出してしまう気持ち、孤独な自分を受け入れてくれた男に女が心を開くこと、時間を共有したことから芽生え始めるほのかな愛情などを、「理解しましょう」と言っても、それは難しいでしょう。
ただ、中学受験の物語文では、これから再婚しようとする新しい父、もしくは母と向き合う少年少女の話、家族を捨てて新しい恋人に走ろうとする男や女の話、死別した夫や妻を思慕する話、はたまた、年老いて自らの肉体や精神が衰えていく老人の葛藤の話など、あらゆる人間模様を描いた作品が出題され、それらを「経験していないから分からない」と遠ざけてしまっては、何も読むことができませんね。
そう、例に挙げたような経験を持っている人は限られていますし、そもそも小学生自身が配偶者の離別に苦しんだり、老いの苦しみを味わったりする経験を持っているはずがありません。
それでも、中学校がそういった題材の文章を出すのはなぜでしょうか。
物語文は、経験が無くとも、「感情の相場」を知っていれば、物語文を解釈すること自体は可能であるからです。
感情の相場を知るためには、心情を表す語い力が欠かせません。
ここで最初の話に戻りますが、やはり漢字・語句と向き合うことが不可欠になるのです。
例えば、「板挟み」だったり、「愛憎の念が入り混じる」だったりを、当該物語文を離れて、日常生活の場面を思い浮かべてもらいながら身に着けることを目指します。
わかるということは、共鳴するということ
国語ができるようになると、副産物として本を読むことが苦でなくなります。
本を読むと、たくさんの知識が血肉となって、人間性に深みが出てくることでしょう。
ただ、本を読んで、世の中のことがわかるようになるかというと、そんなことはありません。
それどころか、どんどん分からなくなります。
それでいいと思います。
わからないから知りたくなって、人生を通して何かを知ろうとする原動力が生まれるのですから。
それでも、本を読んだり、人と接したりしていて、「あ、わかった」と心が揺さぶられることはありますよね。
では、何がわかったのかというと、うまく説明できないものですが、それは、著者や話している相手と、「共鳴している」という状態といえます。
国語は、言葉を理解し、言葉で表現しようとする科目です。
共鳴していることそのものとぴったり一致せずとも、他の人がそんなときに使った言葉を身に着けていく科目と言えるでしょう。
その、「言葉の相場観」を身に着け、筆者、作者、出題者と共鳴する技術を身に着けさせることが、私の目指す中学受験国語の授業です。
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